従順ゆえの自由~リビングストン教会講義~

リビングストーン教会講義~従順ゆえに自由となる~

【第3章】喜んで従順する子供をお探しになる神様

 あるゲームをしてみよう。心理学者と患者のゲームとする。あなたは寝床に横になった患者で、私は隣に座っている心理学者だ。私は一つの言葉を提示すると、心の中で最初に浮かぶことを言わなければならない。準備はできたのか?この言葉だ。罪。何が思い浮かぶのか?

 世界の多くの信徒や指導者との会話をもとに、私はあなたが思い出したことを推測できる。姦通、不倫、変態性欲、その他の形態の性的飛行が思い浮かんだだろう。「その人は罪におぼれている。」私はそのような切ない言葉をよく聞く。通常、指導者の性的堕落を指す言葉だ。その様な言葉を言われると私は何を言っているのかすぐに分かるようになる。罪という単語を思うとき、これが最も思い浮かぶことだと思う。

 アルコール中毒や薬物中毒のようなイメージが浮かんだかもしれない。信徒が本当に重大な罪だと思うことだ。ギャンブル、殺人、盗み、魔術のようなものが浮かんだかもしれない。可能性は少し低いが憎しみ、争い、妬み、許さないことも罪である。

 

3-1 失われた核心となる定義

これまでのことを皆さんが十分に考えたうえでこのことを話したい。アダムはエデンの園で見知らぬ女性と床を共にすることも、麻薬を服用することもしなかった!しかし、アダムの罪はすべての被造世界を束縛の状態にするほど深刻なものであった。罪を定義するときにはアダムのことを考えなければいけない。全ての人の中にはアダムが犯した罪というものがあるからである。アダムが一体何をしたのか?なぜ、人類を破滅に追い込んだのか?アダムは神様の御言葉に従わなかった。

少し考えてみよう。だからといって、前、述べたものが罪ではないというわけではない。ただし教会が罪の重要な定義を忘れている時が多いこと強調したいだけである。私たちは罪の本当の意味をみることができない。罪の本当の意味が分からなければすぐ惑わされる。この章ではそれを取り上げようと思う。

あなたが、もし体温が38度を超え、咳やくしゃみや吐き気があることだけが病気だと知っているとしよう。私が七歳の時にこのように思っていた。その時に私の姉は癌の診断を受けて、病院に頻繁に通い何週間も入院した。母は姉が痛いんだよ、と私に言ったが、姉は、熱もなく咳やくしゃみもしていなかった。私は、両親が姉のことをなぜそのように心配しているかを理解できなかった。私は姉がただ疲れたと思っていた。姉の病気がどれほど深刻なのかをわからなかった。私が知っていて、経験したことを基準に考えたからだ。

 小学校1年生のある日、家から連絡が来て、早退して家に帰って来た。リビングルームに両親のそばに牧師先生がいるのを見てから、事態の深刻性が分かるようになった。そのあとに姉が死んだという話を聞いた。姉がとても痛かったということをその時初めて知った。それまでは、事態を全く把握できでいなかった。病気の対しての私の定義が制限されていたからである。それから、私はあれこれ詳しく聞いてみた。そして健康が悪かったり、病気にかかった人が患者だということがわかった。病気の本当の意味を知ったので、今は前と同じ目で病気を判断しなくなった。

3-2 罪の真の定義

教会にもそのような人が多い。罪が何か分からない時が多い。罪が何なのかを確認するには、聖書に出てきた罪の定義を知るべきである。聖書は「罪とは、法に背くことです」と宣言している。ここでの不法はギリシャ語のでanomia(アノミーア)である。辞書を見ると「法に対する無知や違反によって法なして存在する状態」と書いてある。不法は神様の法や権威に従順しないという意味である。ほかの注釈では、「この箇所は罪という真の意味を教えている」と書いてある。また「罪の本質的な特性は神様の法や御旨を拒否しその場所に自分の旨を置くことである」と書いてある。

 イエス様のたとえ話では、この定義を確認することができる。イエス様は人々との食事の際、ある人がこう言った。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」(ルカ14:15)

 その話から、主は、誰が将来に宴会で食べ物を食べるのかを語られえる。

「そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。」(ルカ14:16-17)

 宴を開いた方は神様であり、僕はイエス様だ。僕という言葉を単数形に書いたことからわかる。聖書は、具体的にこう語る。

  「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。」(ヘブライ1:1-2)イエス様は私たちのための代弁者である。新約の時代である現在、説教して教えている人々は、主の代言者として、使命を受けた人々である。主が言われることをよく聞いて、そのまま伝えなければならない人々である。

 この例えは、父なる神様の御旨が現れている。「来てください。すべての準備が終わりました。」これはすでに招待された人々に言った言葉である。福音をまったく聞いていなった人々ではなく、すでに教会の中にいる人々に対しての言葉である。

 しかし、人々は招待を拒否する言い訳をする。

「私に良いお酒が入りました。そして週末には、楽しいパーティーに行かなければいけません。本当に行きたいパーティーです。申し訳ありません。

 「私はラスベガスへの旅行券を友達からもらいました。カジノ私のやりたい放題で遊ぶこともできるし。申し訳ありません。」

 「今週、妻と一緒にハワイに旅行に行って、リゾートで泊まりながら楽しい時間をすごすつもりです。とにかくその宴に行くことはできません。」

 彼らはこのような言い訳をしたのか?聖書を読んでみるとそうではない。

 「畑を買ったので」ここで疑問ができる。畑を買うのが罪なのか?もし罪ならば私たちにも問題が生じる。土地を買うことは罪でないことは誰でも知っている。続けてみてみると「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください。」(ルカ14:18)先ほど述べたように土地を買うのは罪ではない。しかし、所有への関心が神様の御言葉にすぐ従順することより、優先順位が高くなれば、それは罪にあたる。それが違法である。神様の権威に服従しないことである。

 その次の人もラスベガスに旅に行ったのではない。

 「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください。」(19節)牛やその他の必要なものを買うことは罪なのか?もちろん罪ではない。しかし、神様の御言葉にすぐ従順するよりも、人生やビジネスを重要にすると罪になる。忘れてはいけない。アダムはエデンの園でギャンブルをしたわけではない。ただ神様の御言葉に従順しなかっただけだ。

 最後の人はこう言った。「妻を迎えたばかりなので、行くことができません。」(20節)結婚することは罪なのか?そうではない。結婚が罪ならば私たちのほとんどが罪を犯すことになる。配偶者を喜ばせようという願望が神様の御心に従順するよりも優先になると罪だ。エデンの園を忘れてはいけない。エバは誘惑されたが、アダムはちがう。アダムの罪の本質に対して聖書はこう語る。「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように」(ローマ5:19)アダムは、不従順した。すでに実を食べてしまった妻が夫も同じように食べることを望んだからだ。アダムは、神様の権威に服従するよりも妻を選択した。妻を選びました。それが罪です。アダムが不従順した結果、多くの人々が罪人になりました。これは“多くの人が不法を犯したことや、神様の権威に不従順するようになった”と表現できます。これは本当に罪です。この比喩でイエス様はアダムが神様の御言葉に従順しないで妻を選んだことを指摘しています。

とても丁寧な態度で断わりましたが、招待された神様の御声と権威に服従しない人々に対するイエス様が語られたことを聞いてみましょう。“言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない』」”(ルカ14:24)。どれほど怖い話でしょう。その人たちは以前に栄光たる招待の婚礼宴会で食事を食べることが出来ません。子羊の婚礼宴会に入ることが出来ません。性的な不道徳的や麻薬や爆酒などではありません。ただ神様の御言葉に従順しなかっただけです。なぜ、この事実に驚くしかないですか?人類が審判と言う最大の結末に相応しくなったことも考えてみると、アダムが従順しなかったからではないですか?

この比喩で麻薬中毒者や娼婦や悪徳者やアルコール中毒者や殺人者や強盗はぜんぜん言及されていないことが興味津々ではないですか?しかし、本当にまったく言及されていないですか?

いいえ。

もうちょっと読んでみると、僕は主人に人々の言い訳をそのままに伝えます。そうすると、主人は僕に命じます。“主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ”(ルカ14:23)。通りや小道の人々は娼婦、悪徳者、強盗、ヤクザ、殺人者、アルコール中毒者などを象徴する言葉です。こんな人々も比喩に登場します。これもよい意味として登場します。

この終わりの時にこんな人たち多くが自分の人生に残ったのは空しさと悲しみだけだと言うことを悟り、とげの付いた棒をけることに飽きれるという事実を主はご存知です。主が招いたら、彼らは直ちに従順で反応するでしょう。しかし、すでに招待された人々(教会に通うし、自分が敬虔だと思うが、実は便利な時だけ、或いは自分のスケジュールや目標や祝福や楽しみを妨げない時だけ神様に従順する人々)は結局アダムがそうしたように神様の栄光の臨在から追い出されるでしょう。

3-3 “父よ、行きます”

婚礼宴会の比喩は神様の権威に不服することが真の罪であることを定義します。イエス様は他の比喩でもその点をはっきり明らかにします。“あなたたちはどう思うか”という質問でイエス様はその比喩の話を始めます。この導入質問でイエス様はこの御言葉を聞いている(表から見るには)義人たちがその答えに含まれている真理を深く見せようとします。

イエス様は二人の息子を持つ人について話されます(マタイ21:28-31)。父が長男に“子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい”としました。息子は“はい、行きます”と答えました。答えだけを聞くと、よい子のようです。もちろん、この息子は父を尊敬する心でそのように言ったが、イエス様は彼が“行かなかった”と話されます。

父は次男にも同じく話されます。息子は“嫌です”と答えましたが、そのように話したことを後に悔い改めます。そしてやっていることをやめてブドウ園に行って働きました。

イエス様は大切でありながらも、答えが当たり前の質問を投げかけます。

“この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか?”

聞いていた人たちは正解を言いました。

“次男です”

そうすると、イエス様はすぐ問題の核心を話されました。

“はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。”

全ての親に自分の子女が“はい、行きます”と言って、実際にも喜んでいくことを願います。単純に命令に従うだけではなく、喜んで従順することを願うでしょう。結局、この比喩を持ってイエス様は究極的な神様の権威に不従順することが真の罪であることを当時の指導者たちに知らせました。姦淫、殺人、強盗だけが罪ではありません。

指導者たちは“大きな罪”に陥れていないから自負心と自信感がありました。しかし、このように罪を制限的に定義することで簡単に錯覚に落ちいて、熱心に避けたと告白したその罪(又は神様の権威に不従順)を犯しました。

3-4 それでは”大きな罪”とは?

 聖書全体を読んでみると同じメッセージが繰り返されている。あなたはこう考えるかもしれない。“それだったら嘘、酒酔い、姦淫、盗み、殺人はどうなるか?それは言うまでもなく神様の権威に逆らうことである。神様は私たちに”だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい”(エフェソ4:25)と言われました。お酒に対しては”酒に酔いしれてはなりません”(エフェソ5:18)と命令しました。姦淫に対しては”みだらな行いを避けなさい”(コリンドⅠ6:18)と警告しました。盗みに対しては”盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません”(エフェソ4:28)と教えられる。殺人に対しては”兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべての人殺しには永遠の命がとどまっていません”。(ヨハネⅠ3:15)と言われました。新約聖書ではこのようなことを行う者は神の国を受け継げないと強く言う。しかし、わたしたちは忘れてはいけない事実がある。”大きな罪”のみならずどんな形であれ罪は魂を滅ぼすという事実だ。

ここでまた心理学者と患者に戻りましょう。もう患者は罪について理解し、今は’神様の権威に服従しないこと’が罪だと答えられるようになった。罪と不法の関係を悟ったのである。

 

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