従順の対象なる神様~リビングストン教会講義~

リビングストーン教会特別講義

従順の対象なる神様

ここで聴従する対象はすなわち神である。約束をよく見なさい。その方の権威に服従するなら、その結果、恵みを注ぎ出し保護してくださる。その方の統治を無視するときに付いてくる危険にも目を留めなければならない。わたしたちは権威に反抗して自由を得ようとするが、じつは権威に反抗すればその自由を失ってしまう。妻はそれを「服従には自由があり、反抗には束縛がある」と表現した。ヨブ記の御言葉をよく圧縮した言葉である。 「わたしは神には服従するが、人間にはさきにわたしが首肯できれば服従できる」と話す人々もいるだろう。すなわちこの部分が、わたしたちの成長過程とは違う誤った教会観であるゆえに、わたしたちの前が塞がれる箇所である。神様にだけある権威に対する服従と神様が委任される権威に対する服従は区分されない。すべての権威の根源は神様である!

聖書はこのように勧告する。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」(ローマ13:1-2)。

この御言葉には考えることが多い。(後でもう少し深く調べてみるが)さきにここでいくつかだけ触れていきたい。最初に、治める人々はすべて神が立てられた。神の知らないうちに権威ある座に合法的に上がる人はいないということは、明らかな真理である。わたしたちはこの概念を心に刻まなければならない。二番目に、人間の権威に反抗することはすなわち神の命令と神に反抗することであり、それは審判を自ら選び取ることである。わたしたちはこの聖書の御言葉の著者が(権力を渇望する指導者でなく)父なる神様であるという事実を忘れてはならない。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」(Ⅱテモテ3:16)たためである。たとえ人間が聖書を曲解したとしても、神様が聖書を書かれたという事実は変わらない。

本人たちはすんなりと認めないかもしれないが、神にだけ従順しなければならず、人間の権威には従順しなくてもよいと考える人がひじょうに多い。そのような人たちは、自分が主であると呼ぶ方と正面から衝突せざるをえない。イエス様が(後にパウロとなった)サウルに言われた御言葉を考えてみよう。「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」(使徒26:14)。聖書の時代には、農夫たちはとげの付いた棒を使っていた。およそ2.5mの長さのクヌギや丈夫な木の枝の皮をむけば、とげの付いた棒になった。とげの付いた棒の先端に細くとがった竹釘を打ち込み、牛が犂で畑を耕しているときに後ろ足で蹴ることをすれば刺されるようにした。牛は、痛みと傷を与えるこの鋭い道具にあえて抵抗する考えをいっさい持たなかった。この話は、上にある権威や勢力に抵抗することが無意味であることを表す時に使う俗談である。

パウロのように神の権威に抵抗しようが、その方が委任された権威に抵抗しようが、抵抗する人々は神の御手にあるとげの付いた棒を後ろ足で蹴るようなものである。これは苦しい経験であり、多くの人々はそのような苦労をとおして教訓を得る。わたしもそのような人間であった。

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