目の開かれた経験~リビングストン教会講義~

リビングストーン教会特別講義

1.目の開かれた経験

委任された権威に抵抗することがすなわち神の権威に抵抗することであるという事実に、わたしが痛い思いをもって目を開かれた出来事が思い浮かんでくる。とげの付いた棒を後ろ足で蹴る愚かさに対する永遠の記念物として、わたしに深く刻み込まれた出来事である。

1980年代中盤にわたしはある大型教会の高等部の担当牧師職に就いた。祈りと明確な確信をもって、わたしはその職責が神の御心であると知り、受け入れた。

わたしは高等部の使役の経験がまったくなかった。それでも早く成長し、影響力ある教会の使役チームに属するようになったが、先行きが不透明であった。わたしは高等部使役に関する本と指針書を手当たり次第に読み始めた。その中にルイジアナ州にある教会の高等部担当の牧師が書いた本があった。高等部のプログラムがすばらしい教会であった。2日間そこに行ってその集まりに参加することができるか調べてみた。指導者たちは快く承諾してくださり、わたしは日を定めた。

到着するとすぐに水曜日夜の高等部の礼拝に参加した。本当にすばらしかった。1500席規模の高等部の講堂が別にあったが、席がほとんど満たされていた! ゲームをするわけでないし、やさしくて負担のないメッセージを伝えるわけでもなかった。メッセージは純粋であり力があった。学生たちは本当にその集会に心酔していた。わたしは戦慄を感じた。学ぶに値する対象をよく選んだと確信した。

次の日、わたしは教会で指導者たちに会った。そのときも信じられない事実を知った。高等部の教育館が別にあって、専任秘書2人さらに専任牧師だけでも4人もいた。その牧師4人と2日間さまざまな集まりに参加した。統計数値は十分に驚嘆させた。当時1250名が集まりに参加していたが、その数は驚くべき速度をもって増え続けていた。

そこの担当牧師4人が話す言葉は終始一貫していた。使役の成功の秘訣は、毎週金曜日の夜に100を越える場所で開く「パーティー」であった。パーティーは、事実学生たちの救いを目標とした家庭セル・グループであった。

概念はひじょうに単純であるが意味深長であった。救われていない10代の青少年たちを教会に連れて来ることは難しいが、パーティーに連れて来ることは簡単である。すべての青年たちが各自学校で一人に焦点を合わせ、金曜日の夜のパーティーに招待する。パーティーでは一緒に食べ、交わりをし、CCMを聞く。続いて、前もってリーダー(高校生や大学生)を定めて準備した聖書グループ討議を始め、救いを主題とした対話をもってプログラムが進行される。その次に、参加した学生たちに、人生をイエス様に捧げる機会を与える。その結果、初めて来た多くの教会に学生が救われた。決断した学生たちは別に集まって交わりと教会の重要性を学び、お互い名前と電話番号を交換する。リーダーはその学生たちを水曜日の礼拝に招待する。

パーティーに参加したわたしは多くの学生がイエス様に自分の人生を捧げることに感動した。自分の所属する教会に戻って来た後、わたしはそこで学んだことを協同牧師に知らせた。祈りの後、わたしたちもそのように高等部使役をしなさいと導かれていることを感じた。主日礼拝の後、駐車場でわたしはそのビジョンを担当牧師に期待感に満ちた心で話した。担任牧師はわたしを激励した。「よろしいです、先生。やってみてください!」

2.従順の対象なる神様

ここで聴従する対象はすなわち神である。約束をよく見なさい。その方の権威に服従するなら、その結果、恵みを注ぎ出し保護してくださる。その方の統治を無視するときに付いてくる危険にも目を留めなければならない。わたしたちは権威に反抗して自由を得ようとするが、じつは権威に反抗すればその自由を失ってしまう。妻はそれを「服従には自由があり、反抗には束縛がある」と表現した。ヨブ記の御言葉をよく圧縮した言葉である。 「わたしは神には服従するが、人間にはさきにわたしが首肯できれば服従できる」と話す人々もいるだろう。すなわちこの部分が、わたしたちの成長過程とは違う誤った教会観であるゆえに、わたしたちの前が塞がれる箇所である。神様にだけある権威に対する服従と神様が委任される権威に対する服従は区分されない。すべての権威の根源は神様である!

聖書はこのように勧告する。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」(ローマ13:1-2)。

この御言葉には考えることが多い。(後でもう少し深く調べてみるが)さきにここでいくつかだけ触れていきたい。最初に、治める人々はすべて神が立てられた。神の知らないうちに権威ある座に合法的に上がる人はいないということは、明らかな真理である。わたしたちはこの概念を心に刻まなければならない。二番目に、人間の権威に反抗することはすなわち神の命令と神に反抗することであり、それは審判を自ら選び取ることである。わたしたちはこの聖書の御言葉の著者が(権力を渇望する指導者でなく)父なる神様であるという事実を忘れてはならない。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」(Ⅱテモテ3:16)たためである。たとえ人間が聖書を曲解したとしても、神様が聖書を書かれたという事実は変わらない。

本人たちはすんなりと認めないかもしれないが、神にだけ従順しなければならず、人間の権威には従順しなくてもよいと考える人がひじょうに多い。そのような人たちは、自分が主であると呼ぶ方と正面から衝突せざるをえない。イエス様が(後にパウロとなった)サウルに言われた御言葉を考えてみよう。「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」(使徒26:14)。聖書の時代には、農夫たちはとげの付いた棒を使っていた。およそ2.5mの長さのクヌギや丈夫な木の枝の皮をむけば、とげの付いた棒になった。とげの付いた棒の先端に細くとがった竹釘を打ち込み、牛が犂で畑を耕しているときに後ろ足で蹴ることをすれば刺されるようにした。牛は、痛みと傷を与えるこの鋭い道具にあえて抵抗する考えをいっさい持たなかった。この話は、上にある権威や勢力に抵抗することが無意味であることを表す時に使う俗談である。

パウロのように神の権威に抵抗しようが、その方が委任された権威に抵抗しようが、抵抗する人々は神の御手にあるとげの付いた棒を後ろ足で蹴るようなものである。これは苦しい経験であり、多くの人々はそのような苦労をとおして教訓を得る。わたしもそのような人間であった。

3. 8か月間の計画と準備

祈りの中で神様はわたしに計画をくださった。わたしはリーダーたちに準備させるためにすぐリーダー訓練を始めることにした。火曜日夜の全体高等部の集まりのときにこの事実を発表したら、喜ばしいことに次の主日の朝に70%がリーダー訓練を受けに来た。そのときから6か月間、忠誠、純潔、献身、仕えること、ビジョンなどのリーダーシップのすべての原理を毎週教えることにした。
5か月の後、主はわたしの心にこのように話しかけられた。「リーダー訓練に登録した学生たちの中から24名を選び出して弟子訓練を始めなさい。パーティーの最初のリーダーをその中から選び出さなければならない。」すぐに、家庭セル・グループの最初のリーダーとなる学生たちを訓練し始めた。
次の2か月間、家庭セル・グループのリーダーを準備させた。火曜日の夜に高等部の集まりでパーティーのビジョンを説教した。協同牧師と共にリーダーカリキュラムをはじめとしてパーティーの場所、地域における分かち合い、グループの拡張とこれからの管理方法など、多くの細部事項を定めた。道に迷った魂に対する負担感から、わたしたちは彼らを救うという目標の下、全身全霊を尽くした。
すべてが興奮の連続であった。ビジョンはリーダーたちから高等部の礼拝に来る青年たちに広がっていった。学生たちはすでに、パーティーに誰をもっともさきに招待するか、話をしていた。わたしたちは、パーティーに来た信じない学生たちの心を動かして反応するようにさせ、彼らがイエス様の必要性を悟り、救いを受けるようにしてくださいと主に祈った。協同牧師とわたしは、礼拝堂に火曜日の夜ごとに10代の青年2500名がぎっしりと集まっている光景を想像した。いずれにせよ、すべての人々にビジョンと熱情が充満していた。

4. 忘れられない会議

最初のパーティーを開く3週間前、わたしは何の言葉を聞くようになるかは夢にも思わず、教職者の会議に参加した。会議中、担任牧師は副牧師たちに青天の霹靂となる言葉を話した。
「みなさん、聖霊様がわたしに、わたしたちの教会の方向が家庭セル・グループをしないことであることを見せてくださいました。それゆえ、現在信徒らが家でしているすべての小グループの集まりを中断されることをお願いいたします。」
わたしは自分の耳を疑った。なにか錯誤や誤解があるのではないか。高等部の協同牧師は衝撃に包まれた目でわたしを見つめた。わたしはこのような考えで自分自身をなだめた。「高等部ではない……牧師先生は今、他の部署の先生方に話されたんだな。」独身者使役、老人使役、夫婦使役、その他の部署にも家庭小グループがあったが、成果がなく重点使役でもなかった。その上、何ガ月か前、わたしは担任牧師にすでにわたしの構想を話して「やってみてください」という言葉を聞いていた。それゆえ高等部の小グループだけは例外的に中断しなくてもよいと自分一人で結論を出していた。。
もうこれ以上待つことはできなかった。
「ちょっと待ってください、牧師先生。高等部は除外してのお話ですよね?」
「ビビアー先生、聖霊様がわたしたちの教会の方向がセル・グループをしないことであるとわたしに話されました。」
「牧師先生、何カ月か前、わたしがルイジアナ州の教会の高等部に行って来たことを覚えておられますか。その高等部は1250名が集まります。そこの牧師の4人とも、家庭セル・グループをしたためであると話していました。」
「ビビアー先生、聖霊様がわたしたちの教会の方向がセル・グループをしないことであるとわたしに話されました。」
わたしは担任牧師が理解できていないのだと考えてもっと強く話した。
「牧師先生、救われていない学生たちを教会に連れて来ることは難しいですが、パーティーならばどの高校生も連れて来ることができます。何カ月か前、牧師先生に申しあげたとおり、事実上そのパーティーは道に迷った魂を救うのに重点を置いた家庭セル・グループです。」
「ビビアー先生、聖霊様がわたしたちの教会の方向がセル・グループをしないことであるとわたしに話されました。」
わたしは興奮して反論した。
「しかし、わたしたちの礼拝堂も学生2500名でいっぱいに満たされることができます。フロリダ・オーランドにあるすべての高校生が救われることを見ることができます。」
それでも担任牧師は同じ言葉を繰り返すだけであった。
わたしは15分程度抗弁した。部屋の中で緊張感が高まることをすべての人が感じることができた。それでも、牧師先生が主から受けたという御言葉以外にほかの言葉を話さないことが、後から考えてみるとわたしには幸いであった。
結局、わたしは口を閉じたが、はらわたは煮えくり返っていた。会議の間中、何の言葉も耳に入らなかった。頭の中にはこのような考えでいっぱいであった。「わたしたちは8カ月間、このことを準備してきた。わたしたちがこのことをしているということは牧師先生もご存知だ。わたしが何カ月か前に話したからな。それなのにどうして、数百名、数千名の学生が神の国に入ることのできるこの通路を塞いでしまうのか。牧師先生は今、神様の使役を妨げている!」考えは止まることがなかった。どんなに考えてみてもわたしは正しくて神様の側にいるが、担任牧師はそれを見ていなかった!
わたしは会議が終わるやいなや、矢のように会議室から出て行ってしまった。賢明な先輩の副牧師の一人がわたしを引き止めて知恵と自制と慰めの言葉をかけてくださったが、わたしは「先生、わたしは今、話をする気分ではありません!」と言った。彼はどうしようもないことを知って後ろに退いた。
家に行ってもわたしを喜んで迎える妻に挨拶の言葉もかけないまま、わたしは自分の傷ついた心を苦しい声で話した。
「その人が何をしたのか、あなたも信じることはできないだろう!」
わたしの語調が普通でないことを見て、妻は心配そうに尋ねた。
「その人ですって? 誰が何をしたんですか?」
「担任牧師の言葉だよ! 牧師先生が家庭セル・グループ・パーティーを中断させた! わたしたちが8カ月もの間準備したことを牧師先生が中断させたんだ! 話にならないだろ?」
妻はわたしを見て、ひじょうに率直かつ真摯な声で話した。
「主があなたに教えられることがあるみたいですね。」
妻はそう言って部屋の中に入って行った。今度は妻にたいして腹が立った。わたしはドンドンと音を出しながら台所に入って行き、片方の足を椅子の上に置いて窓の外を見、担任牧師が間違ったという考えだけ続けていた。さらには妻がどうしようもないくらい鈍くて分別力もないという考えまで生じた。

私の口調が普段と違うことを感じた妻が心配しながら私に聞いた。
「あの人って?誰が何をしたんですか?」
「担任牧師先生のことよ!牧師先生が家庭セルのグループパーティーを中止させたんだ!私たちが8ヶ月も準備したことを牧師先生が中止させたよ。何ていうことだ!」
妻は私を見ながらとても正直で真剣な声で答えた。
「神様があなたに教えたいことがあるようですね。」
そして部屋に入った。妻にも腹が立った。私は音を出して歩きながらキッチンに入って、片方の足を椅子にのっけて窓の外を見ながら、牧師先生が間違ったと言う考えばっかりしていた。何だか妻が鈍感で分別力もないということまで考え始めた。

5.主が語られる

窓の外を眺めている時に聖霊様が私の心に語られた。
「ジョン、君は今誰の働きをしているの?私の働きなの?それともあなたの働きなの?」
私は思わず言った。
「それは、主の働きです!」
「いや、そうではない。あなたは自分の働きをしている。」
「主よ、ほとんどの救われていない学生を教会には連れて来れなくとも、パーティーには連れて来ることができます。」
私は自分が考えていた全体の計画を、まるで神様が何もご存知でないように神様に話し始めた。(我々は、どれほど頻繁に勘違いをしていることか!)
神様は私の話が終わってから私に語り始められた。
「ジョン、私はあなたを教会に連れて来て、その牧師に仕えるようにした。その牧師に任せた働きを隣で助けるために、手足になるようにあなたを遣わした。私が教会の責任者として立てた人は一人である。」
神様が私にモーセのことを思い浮かばせてくださった。
「モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神様の家全体の中で忠実でしたが(ヘブライ人への手紙3:5)」モーセは神様が民の頭として立てられた指導者であった。
その次には、ヤコブのことを思い浮かばせてくださった。ヤコブはエルサレム教会の指導者であった。神様を信じる人々の中に割礼に対する議論の事件を思い出した。(使徒言行録15章)パウロとバルナバ、ペトロにヨハネ、それからエルサレム教会の使徒たちと長老たちが集まって、その問題について議論した。
先に、指導者だったファリサイ派の人の何人かが話した。続いて、ペトロが話した。パウロとバルナバは、神様が異邦人の中で行われた御業を報告した。全員が話を終えると、ヤコブが立ち上がりすべての話をまとめた後、「それで、わたしはこう判断します。」と結論を出した。ヤコブは、最高指導者として決定を下し、ペトロとヨハネとパウロを含む全ての人々は皆、その決定に服従した。
このようなことは、天使が牢屋からペトロを逃す場面にも見られる。ペトロはマリアの家に集まった信徒たちに「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言った。ルカとパウロの一行がエルサレムに来たときの状況を、ルカはこのように記録した。「わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長老が皆集まっていた。(使徒言行録21:17-18)」この二つの事件の中、ペトロとパウロはなぜヤコブを探していたのか?名前を別々に触れることによって、ヤコブは最高指導者であることを分かる。これを悟らせた聖霊様は私に続けて語られた。
「ジョン、わたしがあなたをこの牧師先生に仕えるようにしたのだが、審判の日に私があなたに最初に話す言葉は、フロリダ州オーランドで学生たちをどれだけ救いに導ちびいたかということではない。私があなたの上に立てれらた牧師にどのように忠実に仕えたのかについてである。」
神様の次の言葉に私はショックを受けた。
「実際にあなたがオーランドの学生のすべてを救いに導いたとしても、私があなたの上に立てられた牧師に従順して忠誠していないことによって裁くのだ。」
その言葉を聞いた瞬間、改めて神様に対する恐れる心がよみがえった。
自分自身を守ろうとするすべてのことをやめて、主の御手に自分自身を委ねた。
「ジョン、あなたがずっとあなただけの方向に行くならば、高等部と教会はお互いに行く道が二つになるだろう。あなたが教会に分裂(division)をもたらしたということだ。」
分裂(division)の「di」という接頭辞は「二つ」を意味する。分裂というのは「二つのビジョン(di‐vision)」という意味である。今日の教会や家庭が分裂する理由は何であるか。ビジョンが分けられたからである。神様が定められた権威に服従しないという意味である。頭が二つの機関は分裂を避けられないため、神様は指導者を立てられたる。

6. 悔い改めること

私はすぐに反抗的な態度を悔い改めた。祈った後、私は何をすべきなのかが分かった。牧師先生に電話をかけた。
「牧師先生、ジョンです。牧師先生に許しを求めようと電話をしました。神様は、私が牧師先生の権威に逆らっていることを教えてくださいました。私が大きな罪を犯しました。お許しください。家庭セルグループを中止します。」
牧師先生は私を許して下さった。電話を切るとすぐに、聖霊様が言われた。
「今週末にリーダー24人にはどのように言うつもりなのか?」
わたしは、単調で悲しい口調に話す自分の姿を頭の中で描いてみた。
「みんなに話がある。」
子供が私を見ながら聞く。
「なんですか?」
私は話を続ける。
「私たちが8ヶ月間、力を入れて準備していた家庭セルグループのことを、牧師先生が辞めるようにと言われた。だから金曜日の夜のパーティーはなくなったんだ。」
子供たちはその決定が気に食わないようで、文句をいう姿が想像つく。みんな担任牧師先生に腹が立った。我々は全員被害者だ。牧師は悪い人になって私はずっと良い人だ。
このような場面が思い浮び、また聖霊様が言われた。
「そのようにするつもりなのか?」
「いいえ」
私は次の集まりに自信感を持ち笑顔で参加した。そして興奮し情熱が込められた声で発表した。
「みんな嬉しいニュースがあるよ」
彼らは期待した表情で尋ねた。
「なんですか?」
「神様が私たちを助けてくださった。私たちは、神様の御旨ではないことを始め、推進するところだった。担任牧師先生が先生会議で言われたのだが、聖霊様が私たちの教会に望むのは、家庭のセルグループをしないことだと。だから、幸いにもパーティがすぐにキャンセルされたんだ。」
子供たちはすべての私の興奮が移ったように異口同音に叫んだ。
「はい、大丈夫です!」
子供たちのことで難しいことは少しもなかった!この経験を通して、私だけ成長したわけではない。我々はともに成長した。後で私の子供たちに始はじめから終おわりまでのことを話すことができた。その24人の中で多くは、フルタイムの使役者として立派に働いている。

7. 打ち砕かれ悔いる心

振り返ってみるとそれが私の人生と働きにおいての決定的瞬間だった。私の意見をあきらめないで続けて主張して意地を張ったならば、今は全く別の方向に行っただろう。仕方がなくパーティーをキャンセルしただろうが、私は傲慢でかたくなな心を捨てられなかっただろう。絶対に忘れてはいけない。神様が願われるのは外面的な従順ではなく、 打ち砕かれ悔いる心である。神様の御心に飢え渇いた心だ。だからダビデはこう言った。「もしいけにえがあなたに喜ばれ焼き尽くす捧げ物が御旨にかなうのならわたしはそれをささげます。しかし、神様の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。 打ち砕かれ悔いる心を、神様よ、あなたは侮られません。(誌編51:18-19)」
一生大きな犠牲を払って、長時間奉仕して、無報酬で働いて、寝ないで、より多くの人々を救う道を工夫して、様々な働きをすることができる。働きというのはやろうとすると限りがない。私たちは、そのようなすべてを犠牲に捕らわれたまま、自分と自分が行った労苦を神様が喜ばれると考えたりする。しかし、そのすべての行いの中にも、我々はまだ自我の固執強さからきた自己中心の動機にだまされているかもしれない。
神様は服従、すなわち真の従順を喜ばれる。神様の権威に服従することが重要であることを明らかにするだけではなく、さらに従順に対する喜びと情熱を持たせることがのこの本の目的である。
先ほど分かちあった証しにたいし、たくさん疑問を持つかもしれない。
「セルグループを始めるように、神様があなたに言われませんでした?」
「教会が進んでいる方向に対し牧師先生の考えが間違っているならばどうしますか?あなたはセルグループをすべきで、牧師先生が間違っているとすれば、どうなりますか?牧師先生が間違ってる影響を受けている場合はどうしますか?」
今後、この本では、このような疑問と他に多くの質問を取り上げる。しかし、神様が委任された権限について話す前に、神様の直接の権限に対する服従の重要性から考えなければならない。 Watchman Neeはこう言う。
人間が神様から委任された権限に服従するには、まず、神様の権威に出会わなければならない。私たちと神様との関係は、その権威を出会ったかどうかに規定される。その権限と出会ったならば、我々は神様の御手に握られているので、これからはどこにいても他のどんな権限に出会っても、神様が私たちを用いてくださる
神様に服従することの重要性についての聖書的基礎から積まなければならない。その基礎を固めた後、神様が委任された権限に対する服従の重要性を扱うことができる。神様への服従は、その上に積むことすべての事の礎となるだろう。

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