権威の根源なる神様~リビングストン教会講義~

リビングストーン教会特別講義
権威の根源である神様

神の国は王国であって民主主義国家ではない

今、わたしの前には挑戦がその巨大な姿を現した。神の恵みがないならば、日ごとに不法が盛んになる世の真ん中で権威を教えることはできないだろう。したがって、この本で取り扱う内容は世の論理とずれていたり外れていたりする。わたしたちは、この本に書かれている普遍であり根本となる真理と異なって考えるようにさまざまな角度から洗脳された。これこそがわたしたちの魂の敵であるサタンの戦術である。サタンはわたしたちを自由にすることが束縛することであるように見せていて、わたしたちを束縛することが魅力ある善なることであるかのように見せる名選手である。

初めからそうであった。エデンの園を考えてみよう。サタンの方法はよく塞がりを入れることであり、サタンは今に至るまでその方法を変えていない。それゆえ聖書は懇切に警告する。「わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません」(ヤコブ1:16)。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12:1)。

経験に従うなら、もっとも強く抵抗して神の御言葉を聞き入れない人は西欧の人(アメリカとヨーロッパの民主主義国家で生活する人たち)である。理由は当然である。民主主義の思考方式では神の国の原理を理解しにくいためである。民主主義は世の国々には適合する。神の国は文字どおり王国である。王が治めるところであり、序列と秩序と権威のあるところである。神の国の法は衆論や選挙や世論によって成り立つものではない。その法はわたしたちが最善であると考える道に押し流されない。(エバは悪賢い謀略に倒れてそのように考えただけの話である。)今日、わたしたちは、「サムエルは民に王の権能について話し、それを書に記し」(サムエル上10:25)たように、神の国の原理を学ばなければならない。社会がわたしたちに神の国の道を植え付けてくれないためである。

信者として権威に対する世の文化の思考方式どおりに生きていこうとするならば、よくしなければ無気力に陥り、最悪の場合危険な状態に身を置くことになる。まことの命の根源であられる神様と自分の間を塞いでしまうならば、わたしたちに対する神様の保護と恵みの供給が遮られたり完全に断ち切られたりする。それはあたかも、神様はスポーツ大会を監督されるが、わたしたちはそれと関係なくただ野球をするようなものである。あるいはプラグを差し込まずに電気製品を使用することと似ている。

権威に同意できない場合には、民は嘆願したり異議を提起したりして権威に挑戦することができる。どこまでも政府は「国民の、国民による、国民のための」ところであるためである。このような民主主義の思考方式がキリスト教にも染み込んできて、多くの人々をいわゆる自治という謀略の道に至らせた。この道を続けて行ってみると、権威に挑戦することを通り越して露骨的に抵抗するようになる。もっと深刻になれば権威を完全に軽んじるようになる。権威が存在するということを徹底的に無視することによってそのような態度を表す。神を畏れる心がまったくないことを自分も分からず、そのように表してしまう。

しかし、このように接近するならば、わたしたちは得ようとした自由を得ることができない。聖書はこのように話している。「もし、これに耳を傾けて従うなら、彼らはその日々を幸いのうちに、年月を恵みのうちに全うすることができる。しかし、これに耳を傾けなければ、死の川を渡り、愚か者のまま息絶える」(ヨブ36:11-12)。

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